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八千代台自治会HPへようこそ
◆◆◆おしらせ◆◆◆
直近の自治会イベントのお知らせ、当日の開催・中止発表はfacebookページよりご確認ください。
八千代台自治会 令和6年度 基本方針
(1)地域の和を拡げ、安全・安心・快適な街づくりを会員の皆さん
と共に進めていきます。
(2)自治会活動に会員の皆さんが気楽に参加出来るよう、交流と
意見交換の場を拡げます。
(3)行政や各種団体との連携を拡充し、地域の人々と情報の共有を
図ります。
(4)縮小する財政規模に応じた収支の均衡を図り、健全財政で運営
します。
(5)自治会事務所の在りかたについて、継続して検討していきま
す。
自治会の事務所所在地
〒276-0034 八千代台西1-7-2 山﨑ビル 2F
Tel 047-482-5629 Fax 047-482-6530
Mail yachiyodaijichikai@gmail.com
業務時間はウィークディの1時から5時まで
令和6年度総会資料
上記をクリックしてご覧ください
自治会規約
上記をクリックしてご覧ください
自治会の会員数
令和6年4月1日現在の会員数は下記の通りです。
(単位:軒)
一般会員 | 1,702 | 特別会員 | 33 | |
合 計 | 1,735 |
自治会の範囲
上記①の地区は「やよい会自治会」、②は「公団賃貸住宅」、①と②の間は06年6月1日に八千代台自治会に加入した「マンション・グランノア八千代台」である。
(この地図は八千代市長の承認を受けて複製したものである。承認番号都第322号)
自治会の始まり
八千代台自治会が発足したのは、昭和32年(西暦1957年)のことでした。
5月26日八千代台小学校において、
各ブロックから選ばれた代議員109名が出席、
八千代台自治会結成総会が開催され、
役員(会長薮田至孝他4名)及び八千代台自治会内規等が決定されました。
6月15日八千代台小学校で第一回役員会が開催され、
6月20日に八千代台自治会会報第一号が発行されました。
習志野練兵場の東側の松林を中心とした原野を、
千葉県が全国初の住宅団地として開発し、
一戸当たり60坪から100坪の公庫融資付きで分譲したのが
八千代台の出発点です。
昭和29年から造成工事が始まり、
西部劇の開拓地の様な雰囲気の街が出現しました。
東京のサラリーマンを中心に多くの人が集まり、
我が八千代台が出来あがりました。
八千代市 平和都市宣言
平和都市宣言
私たち八千代市民は、21世紀に向けて「調和のとれた人間都市」八千代市の実現をめざしている。この将来都市像の実現は、日本の安全と世界の恒久平和なくしては望みえないものである。
私たち八千代市民は、わが国が世界唯一の被爆国として、核兵器の恐ろしさと被爆者の苦しみを世界の人々に訴え続けるとともに、再び地球上に広島・長崎の惨禍が繰り返されることがないよう世界の恒久平和の達成を強く念願するものである。
私たち八千代市民は、生命の尊厳を深く認識し、将来にわたって、わが国の非核三原則が堅持されるとともに、平和を脅かす核兵器の廃絶と世界の恒久平和の達成のため努力することを決意し、ここに平和都市を宣言する。
昭和62年9月18日
八千代市民憲章
八千代市民憲章
光よ、土よ、風よ、水よ、きようも新しい命をありがとう。
わたしたちは、生ある限り、互いに支えあい、共に生きる社会をつくるため、ここに八千代市民憲章を定めます。
1.やさしい心と明るい声が響き合う、健やかなまちをつくります。
1.小さな一歩を積み重ね、地球を考えるまちをつくります。
1.よろこびと希望に満ちた、安心して住めるまちをつくります。
1.自然を愛し、緑と花を育て、文化と潤いのあるまちをつくります。
1.みんなで支え合い、共に生きるまちをつくります。
平成10年11月19日制定
八千代市子ども憲章
八千代市子ども憲章
自 然 私たちは、八千代市のシンボル新川を守りつづけながら、ゴミの
ない自然の豊かなきれいなまちをつくっていきます。
夢 私たちは、自分の夢に向かって、共に語りあい励ましあいながら
前進するため日々努力していきます。
命 私たちは、明るく健康な毎日が送れるように心がけ、両親から
与えられたかけがえのない命と、地球すべての命を大切にして
いきます。
思いやり 私たちは、いつも相手の気持ちを考える心を持ち、仲間と協力し
あい助けあっていきます。
礼 儀 私たちは、だれとでも明るいあいさつをかわし、たがいにマナー
を守って、気持よくふれあっていきます。
文 化 私たちは、八千代市の文化や伝統を大切にし、さらに、世界の仲
間たちとの交流を深めることで新しい文化をつくっていきます。
2001年1月1日制定
住宅団地発祥の地
「この付近には明治以来習志野騎兵旅団が駐屯し、八千代台団地もその旅団の練兵場であったが、時は移り昭和30年3月多くの方々のご協力を得て、千葉県住宅協会の手でこの地に全国初の住宅団地が誕生した。
これが契機となって住宅金融公庫の団地造成に対する融資制度も確立し、全国に続々と住宅団地の造成を見るようになった。
今から見れば、八千代台団地は必ずしも大団地とは言えないが、団地誕生の歴史を回顧すれば八千代台団地のできたことは洵に意義深いものであった。
昭和40年4月
財団法人 千葉県住宅協会会長 友納 武人 」
これは八千代台駅西口の岡田不動産ビル前・京成バス停留所近くの歩道上にある「住宅団地発祥の地」碑に刻まれている文章である。
この碑は、もと八千代台駅前ロータリーの中にあり、昭和45年4月22日、自治会館落成式当日に除幕されたものである。
昭和30年9月18日(日)付けの毎日新聞千葉版(8面)には次の様に報じられている。
実現する八千代集団住宅
明年中に住宅千四百戸
デパート、警察も設ける
東京都の衛星都市として千葉郡八千代町の習志野原十四万坪に全国初の近代的住宅街がいよいよ実現する。県住宅協会では県の協力のもとに文化都市の造成計画を立案、着々準備を進めていたが、計画の中心となる京成電鉄八千代台駅新設が具体化したので、いよいよ二億円の予算で明春完成を目標に都市造成工事に着手、来月三日から第一回として二百戸の公庫融資による分譲住宅を募集する。なお明年中には近代化した鉄筋アパート四百戸と商店街、学校、公園の造成も終わる予定。
京成には新駅も
県住宅協会の都市造成計画は、まず京成実籾、大和田駅間に八千代台駅を新設、駅を中心に十四万坪を幅員十六㍍の幹線道路五本で区切り、延長十四㌔にもおよぶ三十本の街路で整然と整理し道路はすべて舗装される。幹線道路は住宅街を横切らぬよう注意が払われ、人口密度も一ヘクタールに百二十人程度(普通二百五十人)一戸七十坪から百二十坪と非常に適正化されている。
駅前には千坪の広場が予定され、これから六方に広がる道路ぞいには美しい鉄筋建築の大きなデパートやマーケット式商店街が設けられ、つづいて消防署、町役場出張所、郵便局などが公館街となり、中央通りの中心に小、中学校が併設される。
中央幹線で分けられた両ブロックそれぞれに緑地帯公園が設けられ、なかには幼稚園も作られる。また住居者の生活の便宜を考え小さな商店街と公衆浴場がそれぞれに置かれるが、商店街は都市美観を考慮し最小限必要な全部で五十軒に制限している。
計画住宅数は木造平屋住宅(公庫融資による分譲住宅)千戸、鉄筋アパート(県営)四百戸で人口七千名 を予定している。(以下省略)
上図(八千代台自治会見取り図)の内、着色された地域が千葉県住宅協会が計画した「八千代台団地」の完成地域である。
上図は、千葉県住宅供給公社から提供された「八千代台宅地造成完成平面図」から作図したものである。千葉県住宅供給公社は昭和28年に財団法人千葉県住宅協会として発足し、昭和40年6月に制定された地方住宅供給公社法に基づき、同年11月に千葉県住宅供給公社に改組した。
八千代台団地 計画面積 419,697 ㎡
計画人口 4,456 人
計画個数 1,114 戸
昭和29年1月、大和田町と睦村が合併して八千代町となり、同年9月阿蘇村を合併した。
昭和32年、八千代町高津新田の一部が大字八千代台となり、字北1~7丁目・字西1~7丁目に分かれており、昭和38年高津新田の一部を編入して字西8丁目を加える。
八千代台北・八千代台西と呼ばれるようになったのは昭和47年からである。
八千代台団地ができるまで
ここは陸軍の実弾射撃場として、また習志野騎兵連隊の演習場として使用された国有地であった。
しかし、最初はここに住宅団地をつくる考えはなかった。
もともとこの土地はちかくの鷹の台ゴルフ場が戦時中から農地としてつかわれていたのをゴルフ場にもどすため、そこの農民たちの移転先として県の斡旋で県内の建設会社が国から払い下げてもらったものであった。 ところが、農民たちはゴルフ場で働くことになったので代替地が不要になってしまい、県はあらためてその活用法を考えることになった。
そこで東急沿線の「田園調布」にならって、そばを通っている京成電鉄に新しい駅をつくらせ、住宅団地を建設することにした。県は払い下げを受けた建設会社から土地を買い、県と京成電鉄・東武鉄道の出資で財団法人組織の千葉県住宅協会(現・千葉県住宅供給公社)をつくり、ガス水道付の建売りの住宅団地を建設した。ガスは茂原から天然ガスをボンベで運んで大きな球形のガスタンクにいれ、水道は深い井戸を掘って地下水を利用した。
分譲価格は坪二千四百円であった。
県住宅協会の会長だった友納副知事(当時)は、つぎのように回想している。
私は昭和十三年に習志野騎兵連隊に入隊し、習志野原とくに団地のできた旧高津新田は、「騎兵の襲撃」という最も激しい訓練を受けた場所であったので、この団地の名前を「騎兵台」と名づけたかったが、「軍国主義的だ」と反対され、一般から公募した結果「八千代台団地」となったのであるが、今でも残念に思っている。(「疾風怒涛」)
「千葉県の百年」 山川出版社 より
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